妙蔵寺とは


開山 日輪上人

 妙蔵寺は、延文三年(1358)池上本門寺第三世の日輪上人によって開山されました。本門寺の御歴代は開山・日蓮大聖人、第二世が六老僧の一人日朗上人ですから、わが日蓮宗がさかんに教勢を拡張せんとする時代の突端に、当山は開かれたことになります。
 当時、戸塚村立山の城主、小見山左衛門義次が日輪上人の教化に帰伏し、陣屋の守護のために堂宇を建立したのがその由来です。開山日輪上人は日朗上人の直弟子で、日朗上人から池上本門寺、鎌倉・比企谷妙本寺の両本山をまかされました。時は南北朝期の最中、足利尊氏の没した年です。
 その後二百年ほど後に小見山家は滅びますが、妙蔵寺の歴史は続きます。

中興の祖 日逞上人

 徳川の時代に入ると日蓮宗全体に難がふりかかり、家光が将軍であった寛永年間に至って、身延と池上との激しい論争にまで発展します。その難は妙蔵寺にも及び、ために檀越は離散し、宝物・什器から仏像・経巻にいたるまで持ち出され、寺はさびれて寺号のみが残るといったような時代がありました。
 そのような状況を見かねた本門寺第二十世日通上人は直弟子の日逞(にってい)をつかわし、妙蔵寺第十五世となった日逞上人は檀越を諭し、妙蔵寺を復興しました。当山はこの功績を称え、日逞上人を中興の祖としております。時は寛文十年(1670)の秋、将軍家綱の代のことでした。
 それ以後約百年にわたり伽藍の復興が続き、安政三年(1856)二月、三十四世日深上人の代に壇越らとの協力で竣工したものの、その夜近隣の火災の類焼にあい、これまで復興した伽藍はすべて灰燼に帰したのです。明治維新を迎え、神仏分離令と共に廃仏毀釈運動が盛んになり、妙蔵寺は建物の再建はおろか、宗教活動もままならぬ状態に陥りました。
 その後しばらく学問所などを営みながら活動を続け、明治七年(1874)に三十五世日栄上人が住職になると同時に、当山に日蓮宗宗教院が置かれました。日栄上人もまた立派な本堂を再建しましたが、これも大正十四年に消失しています。

昭和の復興

 以来、仮堂のまま戦後十数年を経るなかで、寺檀共に妙蔵寺再興の機会を協議すること数度に及びました。そして昭和四十年の春、三十八世加藤海晃上人の時に、総代・世話人はじめ多くの檀信徒の方々の協力が実り、鉄筋耐火建築の本堂を落成することができたのです。それから伽藍の整備が進み、同五十八年には今の二天門ができました。境内には川口市指定の大銀杏があり、全山野鳥の森に指定されています。
 こうして現在の妙蔵寺の基礎を作った海晃上人は、平成九年、鎌倉市の日蓮宗本山、比企谷妙本寺に第七十九世として晋山され、現住の第三十九世貴和師に法灯を継承しました。



現在の妙蔵寺

 平成二十年に開山六百五十年を迎えた当山は、平成十五年より本堂大改修、鐘楼移転再建、浄心堂造営の各事業を行い、平成十八年六月二十日に記念事業として落慶法要を厳修いたしました。 また、平成十九年には参道脇に大駐車場を新設し、混雑するお盆やお彼岸のお参りが大変便利になりました。
 今後とも多くの人が親しみやすい開かれたお寺を目指し、檀信徒の皆様と共に、長きに渡り受け継がれてきた法燈を守り続けていきたいと思います。